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2017年6月18日(第三主日)主日礼拝説教『イスラエル歴史の回顧Ⅱモーセに学ぶ』

2017年6月18日(第三主日)主日礼拝説教

テーマ:『イスラエル歴史の回顧Ⅱモーセに学ぶ』

テキスト:使徒の働き7/17~38

ステパノによるイスラエル歴史の回顧録の第二回目です。

アブラハムは主の言われたことを見ずして信じ、目指す所へ出掛けて行きました。

神はアブラハムを祝福の基とされ、祝福が多くの人々に広がって行くようにされました。

『モーセ』“水の中から引き出した”出エジプト記2章10節

エジプトを象徴するナイル川から引き出されたモーセ。

私たちはこの世の濁流、罪と汚れ、嘘と醜い争いの濁流から引き出されました。

モーセの生涯は三つに区分されます。

Ⅰ、エジプトに於ける40年。

この期間はモーセにとって、将来の重大な任務を遂行するための準備と訓練の時でした。

モーセは当時最強の国エジプトに於いて、最高の学問、最強の武道技術を身に付けて、

将来、エジプトの頂点に立ってこれを支配する指導者としての能力を蓄える時でした。

                            使徒の働き7/22

ところが神のご計画はエジプトの王者としてではなく、神に仕える神の僕として、

同胞イスラエルをエジプトから解放・救済するための訓練であったのです。

モーセはエジプトの栄誉・冨・国のすべてを自分の思うとおりに出来ることを放棄して、神の御心に従ったのです。神が人に一番期待されるのは謙遜と従順です。

神がアブラハムやモーセをご自分の器として選ばれた最も大きな理由は、

彼らの神に対する謙遜と従順な信仰によります。

神が聖書を通して教えて下さることに私たちが従順・素直に従うことが主の祝福です。

Ⅱ、荒野に於ける40年。

この期間はモーセが自分の無力さを痛いほど、思い知らされる時です。

恐らくエジプトでのモーセは自信満々だった、と思います。

彼は同胞を救うためにベストを尽くした、と誇らしげでしたが、彼は誰にも受け入れられなかったのです。エジプトで培って得た自分の能力、知恵、技量などは、神の知恵・助け無くしては何の役にも立ちませんでした。

何でも思うとおりにやって来たモーセにとっては、大きな屈辱と失望でした。

ミデヤンの野に逃れたモーセはそこで40年間、羊飼いをしながら、エキソダスに備える神のご計画を知ったのでした。

Ⅲ、出エジプトの40年。

この期間はモーセが神こそは全てだ、ということを学んだ時です。

安易な世俗の渦の中で欲望の虜になってしまう生活から、神のご計画であるイスラエル民族の救出、すなわち、モーセにとって本来の使命に彼を目覚めさせたものは何でしたか。

それは彼の古いもの、すべてを洗いざらい捨ててしまうことでした。出エジプト三章

彼は消えて無くならない燃える柴の前に恐れおののきながら跪きました。

そこは神の聖なる場所でありましたが、モーセは圧倒されて平伏して、

役に立たないこれまでの古きものすべてを脱ぎ捨てて、新しい武器を身に付けました。

それは神の杖でした。あなたは既に私の聖なる器、神のご用遂行のためには神の杖、

すなわち、神の御霊と神のみ言葉を信頼して、エキソダスを敢行しなさい。

モーセは決断しました。信仰の原点に立ち帰ったモーセの決断はやがて民をエジプトから救出し、国を再興致しました。

私たちも失望、失敗した時、試練の辛い悲しい時、打ちのめされた時、神の御霊とみ言葉によって、幾度も慰められ、癒やされ、力付けられて来たことでしょうか。

儚い歓楽や空しく過ぎ行く詰まらない世俗的なものに時・財・エネルギーを費やすのではなく、また、役に立たないボロボロの古い靴を脱ぎ捨てて、

いつも共に居て下さる主を信じる信仰の原点、主の十字架に帰り、新しくされて生きることです。あなたもまた、アブラハムのように祝福の基となって下さい。

モーセは神の杖を持って、紅海を真っ二つに割って民に乾いた地を渡らせましたが、

あなたは幾つものハードルがあるあなたの人生を切り開いて、入るべき所に辿り着いて欲しい、と願います。

『信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな冨と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。』ヘブル11:24、25、26

見るべきお方から目を離さないで歩み続けて下さい。

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2017年6月11日説教要旨『ひとりも滅びてはならない』

2017年6月11日(第二主日)世界こどもの日感謝礼拝式

テーマ:『ひとりも滅びてはならない』
テキスト:マタイ18/1~14

Ⅰ、天の御国に一番相応しい人。マタイ18/1~9
①悔い改めた人。初代教会の発信したメッセージは「悔い改めのメッセージ」でした。
これは所謂(いわゆる)、「方向転換する」という意味ですが、

②己を低くする人。心砕かれ、仕えることを喜びとしている人です。
『わたしが来たのは仕えられるためではなく、仕えるためです』とイエスは言われましたが、イエス様でさえそうであるなら、私たちこそ神にも人にも仕える謙遜な僕(しもべ)であるべきです。そして信仰と従順を持って、主のみ言葉を受け入れる人であるべきです。

③『わたしの名のゆえに』
主イエス様を受け入れ、ひとりの人の魂を受け入れる人、弱くて脆い、罪深い人、挫けやすい躓きやすい人、特にここでは幼い魂を受け入れる人は幸いです。


Ⅱ、躓(つまず)きの石を取り除く。マタイ18/7~10
私たちを躓かせる石とは、私たちを堕落の道へと誘う諸々の罪のことです。
この手も、この足も、目も口も、躓きの元にならないようにしなさい。
ただ、神の栄光のために用いなさい。Ⅰコリント6/18~20
神に喜ばれ、他人様のお役に立つように、人を活かすために、人の徳を高めるために用いなさい。あなたの体を地獄に相応しいことに用いてはなりません。
悪魔に騙(だま)されたり、サタンに引き込まれてはなりません。
『つまづかせる』スキャンダル<ギ>スカンダロン=本来の意味は『罠』です。
獣を捕らえるあの罠は、思いがけない場所に仕掛けられています。
何も知らずに飛び込んで来る動物の足をバチン!と押さえ込んでしまうのです。
今まで面白可笑しく、何気なく暮らして来た私たちが思い掛けない所に潜んでいた障害物で躓いてしまう、罠にかかって人生がひっくり返ってしまう、傷付き倒れてしまう、躓かせてしまう、スキャンダラスな人生となってしまった、と藻掻く人は多いのです。
そんな私たちを救うためにイエス・キリストはこの世に来られました。


Ⅲ、イエス・キリストは滅びる者を救うために来られた。マタイ18/11~14
『滅びている人』=『失われている人』
何を失っているのでしょうか。
神を見失っている。人生の生き甲斐いを失っている。まことの命を失っている。
平安、喜び、希望を失っている。百匹の羊の中の迷える羊の話 ルカ15/4~7
神にとって、あなた一人くらいはどうなっても良い、という軽々しいものではないのです。あなたは神にとって高価で尊い宝物のような存在でなのです。
たった一匹くらい失っても彼の生活には何の影響もなかったはずですが、
彼は一匹一匹を100%ずつ愛していたので、命懸けで必死になって探し求めました。
見付け出した時の彼の喜びはどんなに大きかったことでしょうか。
まことの神様はそのようなお方なのです。
世界中でたった一人のあなたを愛して、命懸けであなたを捜して、救って下さったのです。
それが神の愛であり、キリストの十字架の愛です。
ここに神の疼きがあります。神はひとりひとりを100%ずつ愛して下さっています。
あなた一人が神にとって全世界の富よりもはるかに大事なのです。

説教要旨[福本行宏牧師]2017年6月4日

Ⅰ、初代教会のメッセージ。
①罪を悔い改めなさい。罪を洗いざらい悔い改める。古いものを捨てて、方向転換をして、心を神に向けて生活する。何もかも曲がりくねってしまった時代。
ストレス社会の慢性化、児童虐待は深刻である。
しかし一つの望みは人の心・人生・家庭はキリストによって真っ直ぐに造り替えられるところにある。

②キリストの十字架の血で罪がゆるされる。

③救われた証詞として、バプテスマを受ける。

④神の賜物としての聖霊を受けなさい!
この素晴らしい福音のメッセージは、初代教会の人々に与えらただけでなく、私たちにも与えられているメッセージであり、現代の教会が発信するメッセージ。
二千数百年の間、教会は数々の試練を通って来たが、依然として教会は活き続けている。
それは聖霊が注がれて以来、今も働き続けているからである。聖霊の宮とされた私たちを通してみことばが語り続けられているから。


Ⅱ、初代教会の特質(スタイル)。初代教会は現代の教会のお手本=モデル・チャーチである。
1.聖霊の注ぎて聖霊充満の宣教に燃える教会。
イエスが約束された通り、教会の誕生と同時に聖霊の御業が始まった。これはヨエルの預言の成就。

2.聖書を教え、それを守る教会。
信徒たちは使徒たちが教える神のみ言葉を素直に聞き従った。

3.主にある純潔な交わり。
彼らの繋がりは消え去っていく世俗的な、打算的な繋がりではなく、十字架のきよい愛の繋がり、み言葉を信じる信仰の繋がりであった。

4、聖餐の恵み。
彼らは洗礼式と共に、聖餐式を非常に重んじて、これを守り続けた。

5、祈りの生活。
初代教会の信徒達は家庭でもよく祈り、教会に集まってはよく祈った。これが実に楽しかった。
祈りに燃える教会であった。
よく祈っていたからこそ聖霊が働いて、素晴らしい主の御業が起こされていった。
わたしたちも教会に集まってはよく祈る。
よく祈っていますと聖霊が働いて悪魔は嫌がって、手も足も出せなくなる。実に痛快である。
不信仰、傲慢、愚痴、呟き、悪癖、悪習慣、試練、不安、様々な戦いも、悩みも、追い出されて、感謝に変えられていくのが目に見えるようである。
あなたが神に祈る時、神があなたの中で息をなさる。
神の息は聖霊のことです。私たちが祈る時、神が私たちの中で息づいて下さっている。神の息遣いによって慰められますし、癒やされる。
希望が湧いて来る。生々しく神を実体験する。
今私たちは聖霊とみ言葉によって神を実感が出来る。
慰め主・助け主・癒し主である聖霊を今一度、本気になって信じて生きたい。聖霊が注がれて今も尚働き続けているのは、福音宣教と共に主の再臨に間に合うためである。お祈り致します。
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